母の思い出

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母はかなりのあわて者で、よく転んだり、ガラス戸にぶつ かったり、しょっちゅう財布を忘れて出かけては家に取り に帰っていました。 母がアメリカに住んでいる姉の家に行った時のこと。 出かけたあとに、廊下でつながった母の家に行ってみる と、なぜか部屋が暖かいのです。もしやと台所を見ると、 ガス台のガスがつけっぱなしになっていました。もし気が 付かなければ・・・ その後、その心配が現実になりました。 高齢になってからのことですが、自分の家で天ぷらを揚 げ、私の家に持ってきて一緒に夕飯を食べていました。 すると、息子が「火事だ!」と怒鳴りながら消火器を取り に走って来ました。母の家に駆けつけると、黒い煙が充 満しています。火元はまたもや台所。天ぷら鍋から天井 届くほどの大きな炎が出ていました。 天ぷらを揚げたまま、火を消さずに来てしまったのです。 遊びに来ていた息子の友人たちが異変に気づき、消火 器で消して危機一髪で助かりました。 また、母はよく転び、しばしば救急車のお世話になりまし た。一番驚いたのは、以前書いた凶暴な二代目サミーに 引きずり倒されて頭を打った時です。 家に帰ってきた母は、頭を打ったショックで一瞬記憶喪失 になり、驚いた家内が救急車を頼みました。 女子医大に運ばれたと聞いて急いで車で行き、急患入口 の前に車を停めました。すると、中から先生と看護婦さん が出てきて、「いま来られた患者さんのことで重大なお話 が・・・」と言われました。家内からそんな重傷とは傷は聞 いていなかったのでものすごく驚きました。 でもそれは間違いでした。たまたまその患者さんの付き添 いと私の車が同じ色同じ車種だったのです。 検査の結果、異常はありませんでした。でも、だんだん記 憶力が衰えてきたのは、この事故のせいなのか年のせい なのか定かでありません。 母の実家は、栃木県の黒羽という町(芭蕉の里として 有名)で、JRの黒磯駅から更に車で30分ほど奥に入っ たへんぴな所にあります。ちなみに、私がよく行く父の 実家は、その母が嫁に来てびっくりしたというほどもっと 田舎です。 両親の結婚式はその実家で、村の人総出で1週間ぶっ 通しで続けられたそうです。 新婚当初、母は一緒に住んでいた私の曾祖母のキセル 盆をしょっちゅう蹴飛ばして歩き、「裕子はほんとにあわ て者だねえ」とよく言われていたそうです。 母は日本古来の妻とでもいうか、父に口答えをしたこと がなく、父の帰宅がいくら遅くても化粧をして待っていま した(家内とは大違い)。だからいつも慢性の寝不足で、 よくいねむりをしていました。 そんなおだやかな母が、案外やきもち焼きだったという ことが晩年になってわかりました。 父が亡くなって10年以上たったころ、実家の納戸を整理 していると、祖父の荷物の中に、父が母と結婚する前に 見合いをした女性の写真が出て気ました。 見つけたとき母はケラケラ笑っていましたが、翌日ゴミ 箱の中にビリビリに破ったその写真が捨ててありました。 母は手芸が好きで、特に人形作りの腕前はプロ並みで した。展示会に出展するためいつも締め切りに追われ、 次は絶対に止めるとぼやきながら、それでもずっと作り 続けていました。 祖父・祖母・父とずっと面倒を見てきた母は、父が亡く なったあと、何か吹っ切れたようにいろいろな習い事や、 カルチャーセンターで文学や古文書などの勉強を初め、 毎日いくつも掛け持ちし、朝から夜遅くまで出歩いてい ました。 文学では特に宮沢賢治が好きで、カルチャーセンターの 講師をされていた宮沢賢治イーハトーブ館館長と意気投 合し、母の作った「セロ弾きのゴーシュ」の人形が、その 館に展示されました(現在は不明です)。 また母は旅行が好きで、よく1人で国内旅行に出かけて いました。旅館も予約しない気ままな旅で、どこに泊まる のかさえわからず、まるでフウテンの寅さんのようでした。 桜が大好きで、桜が咲くころになると1人でお花見に出 かけ、桜前線を追って旅行に出かけました。 そんな母が、あるとき具合が悪くなりました。 近所の医師に診てもらったところ、電話で家内が呼び出 され、劇症肝炎で生命の危険があると言われ、即入院 となりました。幸い大事には至りませんでしたが、原因 は毎日のハードスケジュールによる過労でした。 それ以来、母が外出する時は私の許可制となりました。 母はいろんな出来事や失敗をしでかすので、毎年私の マンガ年賀状のネタには困りませんでした。 私の家内は、結婚して以来母と一緒に過ごし、実の娘 のように母に接して、晩年はずっと面倒をみてくれました。 いろいろ大変な時代を経験し苦労もしたようですが、嫁 の義務を全て果たし、晩年は好きなことができ、自分の 嫁にやさしくされて幸せな人生だったと思います。 ]]>

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