歴史探訪 第11代将軍は救命丸を飲んだ・・・かも?

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むかしは、大事なものは安全のために菩提寺に預ける習慣があ りました。宇津家でも大事な古文書を預けていましたが、その菩 提寺が二度の火災にあい、半分以上消失してしまったそうです。 それでもまだかなりの古文書が残されいます。 ただ、せっかく残っている古文書もミミズがのたうっているような 文字で、私などが見ても何が書いてあるのかさっぱりわかりませ ん。以前これが読める達人が親戚にいて、少しづつ解読し「史料 館報」として書き残しました。23号までありますが、その中から 興味深いものをご紹介します。 第9号に「一橋徳川家上納と献上」というのがにあり、江戸時代 の一橋とのつながりが書いてあります。 一橋家は、将軍家のお世継ぎのために認められた御三卿で、1746 年から明治維新まで下野国(栃木県の芳賀・塩谷地方)の領主 でした。ちなみに、将軍から江戸城の近くの一橋に邸宅を賜った ので、一橋家と呼ばれるようになったそうです。 201005181404000%20%20%20%20%E5%8F%B2%E6%96%99%E9%A4%A8%E5%8C%85.jpg 救命丸は、江戸時代中期ごろから全国に販売をはじめ、江戸の 取扱店に上州屋という旅籠(旅館)がありました。この旅籠が、偶 然領主である一橋家の御用宿だったのです。これが縁となり一 橋家への献上が始まるのですが、後には買い上げていただきま した。 一橋家が画家に描かせた当時の宇津家(茨城県立民族史料館蔵) yasiki-zu%20%20%20%20%20%E5%AE%87%E6%B4%A5%E5%AE%B6%E3%80%80%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.jpg 古文書には、一橋家のお子様用に差し上げたこと、常備薬として 一橋家の郡奉行を通じて納める事、及びその支払い方法につい て書いてあります。ここで注目したいのは、当時の救命丸には大 人からお子様まで使える効能・用法があったのですが、一橋家に はお子様用として納めたと書いてあることです。 201005181405000%20%20%20%20%20%20%20%20%E4%B8%80%E6%A9%8B.jpg 江戸時代に限りませんが、むかしは栄養状態が悪くて乳幼児の 死亡率が高く、将軍家や御三卿で何十人も子供をもうけても、成 人するのは少なく、跡継ぎに困ったそうです。一橋家でも十数名 の御殿医を抱え、お世継ぎになるかもしれない子供の健康に大 変気を配ってました。 一橋家から宇津家に対する上納の指示は、まさにこのような時 期にあり、大切なお子様用のために救命丸を飲ませていたと思 われます。また、常備していた救命丸が万一切れた場合に届け るため、一橋家の御紋付き提灯を二つ渡されていたとも書いて あります。それだけ救命丸に信頼をおいていた証ともいえます。 ちなみに、救命丸は現在は治療薬として使われていますが、以 前は健康を維持するために飲む保健薬だったため、その消費量 も多かったのだと思います。 しかし、いくら一橋家の提灯があるとはいえ、100キロ以上も離 れている江戸へ運ぶには日にちがかかったのでは?実は、鬼怒 川を使うと以外に早かったようです。鬼怒川を下って途中で江戸 川の舟に乗り換え、いまの秋葉原のあたりに着いたのです。ここ から一橋まで馬で飛ばせばすぐです。前記の上州屋が取引先に なったのも、この辺にあったので配達の便利がよかったからかも しれません) 天保年間の江戸の地図。よく見えませんが中央に一橋殿があり、 左上あたりが現在の秋葉原あたり。 201005181407000%20%20%20%20%20%20%20%20%20%20%20%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E5%9B%B3.jpg ここからは想像ですが、一橋家から輩出された第11代将軍徳川 家斉の生まれが1773年。救命丸の献上が記されている古文書 の日付が1782年。もしかすると、徳川家斉も幼少のころ、救命 丸を飲んでいた・・・かも。 文化・文政・天保と、救命丸の献上は続きました。 201005181406000%20%20%20%20%20%20%20%20%E7%8C%AE%E4%B8%8A%E3%80%80%E8%B3%87%E6%96%99.jpg このようなことがわかったのも、すべて古文書があったからこそ。 400年後の子孫に残すために、ブログをせっせと書かなくては。 でも、400年後にパソコンって見れるのかなあ?? ]]>

にわかにわ師奮闘記