震災から1ヶ月半たち、東京で感じる余震は少なくなりましたが、栃 木ではいまだに日に2~3回は感じます。 用があって町民広場に行ったら、グラウンドに地震で倒壊した瓦礫の 山がありました。大谷石やレンガ、アルミやトタン、木材と3つの山に 別れていましたが、被害の大きさを目の当たりにして唖然としました。 ここら辺でこんなですから、福島や宮城などの被災地の想像がつき ません。 ほとんどがもろい大谷石のようです 昨年は、5月頃から必死になって庭の手入れを始めましたが、最近 は人に頼めるようになったので、気持ちに余裕ができました。 昨年秋に木の枝を切りすぎて、葉っぱが出てきたら不恰好になって しまった木がちらほら。でも、初夏は花がきれいです。 いつの間にか芝に根付いた高山植物のひな草 母が好きだった「すおう」 たぶん八重桜 去年植えたチューリップも咲きました 今回の重点作業は、裏庭の竹林の開墾。もともとは、祖母が竹の子 を取りたいと竹を植えたそうですが、毎年竹の子がどんどん生えてく るので、いまでは数百本にもなってしまいました。 今は竹の子が生えてくる時期。あっちこっちからムクムクと顔を出し、 採っても採ってもまさに雨後の竹の子のごとくです。ついには食べ切 れずに蹴り倒して歩く始末。一晩であっという間に成長するので、ま るでエイリアンの卵のようです。 ちょっとえぐいけど、ぬかを入れて煮ればグーです 竹は、中が空洞なので切るのは割と簡単ですが、倒したあとの処分 が問題。特に孟宗竹は、太くて長く重いので大変です。いくつかに切 って家内と二人で引きずっていき、何十本も燃しました。竹は燃える と中の空気が膨張して破裂するので、パパパパーンとまるで戦場に いるようです。 毎日竹ばっかり切っていたので、一日はドライブに行こうということに なりました。那須・塩原・日光などの観光地は何度も行ってるので、 今回は芭蕉の里といわれている黒羽に行ってみることに。 黒羽は、福島県に近い栃木県北東部にあり、江戸時代、松尾芭蕉が 奥の細道の旅中14日も在して数々の句を残したことから「芭蕉の里」 として有名になりました。 実は黒羽には母の実家があります。叔父(母の弟)に言わせると、芭 蕉が長く滞在したのは、奥の細道に分け入る前に怖気好き、ぐずぐ ずしていたのではないかと。 芭蕉が好きだった母は黒羽町を誇りにしてましたが、いまは大田原 市に併合され、残念ながら黒羽という町は消えてしまいました。母が 生きていたらさぞ悔しがったでしょう。 うちの実家からは一時間の距離。途中、壬生町という所を通ると、家 々の前の柱にいろいろな屋号の看板が付いてました。何かなと思っ て町の集会所に寄ってみたら、ここは門前町で、町起こしの為に昔の 屋号を掲げているみたいです。 そのお寺 なぜか川の中にある鳥居 面白いのは屋号と一緒に「籠屋」「麹屋」などの職業名が混在し、い までもその商売を続けてる店があったことです。何度も通った道です が、初めての発見。これも、いつもブログのネタを探しているおかげ です。 また途中に、下侍古墳というのがありました。誰のお墓かはわかりま せんが、江戸時代に水戸光圀の命により保全整備され、上に松を植 えたおかげで現在でもその原形をとどめ「日本で一番美しい古墳」と いわれているそうです。 まもなく黒羽町に到着。昔はよく来てたので懐かしい。 私が子供の頃はほんとの田舎町でしたが、畠の中の父の実家に比 べれば、おもちゃ屋も本屋もあってまるで都会でした。 今でも残る、珍しい蔵の中にある銀行 さらに2キロほど行くと芭蕉の館があります。記念館は休みでしたが、 芭蕉が泊まっていたといわれる場所に行ってみました。いまある建 物はどうもあとから建てたらしく、窓がサッシでちょっと雰囲気が・・・ 芭蕉の句の碑 さらに10キロほど行くと、芭蕉が立ち寄ったとして有名な雲巌寺があ ります。深い緑に囲まれた山腹にあり、自然がすばらしい。秋に来た ら、きっと紅葉がきれいでしょう。家内が「芭蕉は泊まったところから こんな遠いところまで歩いてきたのかしら」と一言。彼は東北中を歩 いて廻ったというのに。 帰りに、那珂川沿いの川原にあるヤナで鮎を食べました。 時期的にまだ早いのか、お客さんはガラガラ。毎年来るのですが、 混んでいる時に来ると、焼き過ぎでパサパサの時があります。今回 は期待できそう。しかし・・・天然物と言って持ってきてくれた鮎は、お 腹いっぱいに卵が詰まっていてイマイチ。鮎は子連れじゃないほうが 美味しいようです。 雰囲気はバツグンなのですが・・・ 都会では見られない五月の風景2題 鯉のぼりと田植え ]]>