母の実家は芭蕉の里

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今回は母の実家の話です。

母の実家は、JR黒磯駅から車で1時間ほど北東に行った黒羽町で
した。「でした」と言うのは、現在は大田原市と合併し、黒羽町と
いう地名が無くなってしまったからです。
松尾芭蕉が、奥の細道の旅中に14日間も滞在し、数々の句を残し
たことから、芭蕉の里と呼ばれることもあります。

 

黒羽町の郊外にある雲厳寺(うんがんじ)は、吉永小百合さんを使っ
たJR東日本のCMに登場。ここでも芭蕉は句を読んでいます。
母は芭蕉が好きで、芭蕉が歩いた奥の細道をたどっていました。

 

むかしここら辺に、遠くに那須連山が見えるだけで那須○○○タウン
と付けた分譲地がありました。そういえば、もっとひどいのは、
東北道が出来るずっと前に、那須の別荘地で「東京から車で1時間」
と謳ったCMをやっていました。当時東京から実家まで3時間以上、
さらに那須は60キロも先なのに、東京から車で1時間 とは・・・
一般道を200キロで飛ばしても着きません。むかしの誇大広告は
ひどかったです。

 

 

山間部の小さな町ですが、かっては東北線の西那須野駅から黒羽
町まで東野鉄道が走り、映画「路傍の石」のシーンに使われたこと
もありました。それが母の自慢で、妻は耳にタコが出来るほど聞
かされたそうです。

 

実家は街道沿いに面し、裏は15mぐらいの崖で、下に那珂川が流れ
ている好立地。離れの二階からの眺めは絶景でした。

 

実家は天秤など「測り」の道具を売る店を営んでいて、一時は郵
便局までやっていたそうです。母はここで生まれ、大学に行くま
でここで育ちました。祖父は弓道の師範で、近くに弓道場があり、
母も小さいころからやらされてて嫌だったそうです。

 

当時のお店兼用の建物は広くて古く、奥が深くて薄暗い家でした。
商家らしく家と石蔵が合体していて、家の中に両開きの分厚い扉
がありました。屋根に明かり取りのガラス窓があり、従兄弟(叔父
の長男)がまだ子供の頃に二階に冒険に行ってガラスを踏み抜き、
天井から足が出て大騒ぎになりました。

実家の前で親戚が集まった時の写真です

 

二階に行く広い階段があり、段の半分は頂き物などの荷物が積
んでありました。その使い方の伝統は母も妻も受け継ぎ、荷物
どころか洗濯物置き場になっていました。

 

庭にほ石蔵が2つあり、壁に母が子どものころ描いたサザエさん
の顔が残っていました。離れは明るく、一階が和室で二階が洋間。
当時としてはモダンな造りで、二階は祖父のアトリエでした。
トイレは母屋も離れも汲み取り式でしたが、離れは明るい分マシ
でよくカギを借りて使ってました。

 

東野鉄道の終点黒羽駅があった場所から、坂道を下った突き当り
の家が母の実家。母は私の出産のとき実家にいて、駅から下って
きた父の姿を見たら産気づいたそうです。

 

黒羽もそこそこ田舎ですが、母が高根沢に嫁いだ時は、田んぼの
中をどんどん進み、もっともっと田舎だったので心細くなった
そうです。

 

子どものころ、高根沢の実家から黒羽の実家に連れて行かれると
うきうきしました。なにしろ、高根沢の実家の回りは畑と田んぼ
だけで、道は舗装されてなく牛のフンだらけ。それに比べて黒羽
町のメインストリートは舗装され、本屋やおもちゃ屋、食堂など、
一通りのお店はありました。むかしは実家に夏休み中1カ月ぐら
い行っていたので、実家では買えない本やおもちゃを買ってもら
うのが楽しみでした。

 

母方の祖母は優しかったのですが、小さいころ私が高熱を出した
時、離れた所で「ほんとにこの子はしょうがないね!」と怒って
いるのが聞こえました。ショックで涙が出て、母親に泣きながら
「ごめんね」と謝ったのを覚えています。だからいま、孫を理不尽
に責めたりはしません(小言は言いますが)。

 

母方の祖父は怖くて苦手でした。私に怒るわけではないのですが、
ほとんど話すこともなく、いつも大声で祖母を怒鳴っていたから
です。お酒を飲んでテレビの前で寝てしまうので、見たいテレビ
も見れません。テレビを見たいときは、直接ではなく母経由で頼
んでました。

 

そんな祖父が、おもちゃの行商人から、ブリキで出来たおもちゃ
のモーターボートを買ってくれました。下の河原に下りて、川の
淀みに浮かべて遊んでいましたが、ときに子供はとんでもないこ
とをしでかします。浮かべたボートの周りに石を投げて遊んでい
ましたが、ボートに当たって大きなへこみが出来ました。

 

子供心にも「まずい!母に叱られる」と思いました。だったら
隠しちゃおうと、子供の浅知恵で戸棚の後ろに隠しましたがほど
なく見つかり、祖父に謝らせられました。でも祖父は、笑って許
してくれました。

 

もう一つ、いたずらしたのを思い出しました。
二階の押し入れの布団の下に、本物の日本刀が5~6本ありました。
あるとき、テレビで見たように切れるのか試したくなり、厚い少
年雑誌を立てて上から真っ二つ・・・と思ったら、ぜんぜん切れ
ずに刃こぼれしちゃいました。60年間秘密にしてたので、犯人は
永遠の謎だったでしょう。

 

祖父はハイカラで、当時としては珍しい、アメリカ製の4人乗り
ピックアップトラックに乗っていました。
たまに早起きして、近くの牧場にアイスクリームを食べに連れて
行ってくれました。なぜ早起きして行くかというと、祖父はノロ
ノロ運転で国道が渋滞してしまうからです。後ろに車がずらーっ
と並び、恥ずかしかったのを覚えています。

 

大学受験の時、夏休みに数日間1人で離れに泊まらせてもらい
受験勉強をしました。テレビもなく、聞こえるのは目の前を流れ
る川の音だけで勉強がはかどりました。夕飯はどうしたかわすれ
ましたが、お昼は出前をとってくれました。でも、遠慮して
リクエストができず、嫌いな中華丼が出された時は困りました。

 

大学生になったとき祖父が病気になり、宇都宮の病院に入院する
ことになって、私が運転して乗せていくことになりました。
いままで祖父と話すことはほとんどなかったのですが、車の中で
は珍しく私に話しかけてくれて、学生生活のことなどを聞いて
ました。

 

病院に送ってから高根沢の実家に戻ってしばらくすると、母から
電話があって祖父が亡くなったと知らされました。
それはそれはショックでした。さっきまで笑顔で話していたのに・・・
祖父が大好きだったというわけではありませんが、とても悲し
かったです。

 

後で聞くと、病院に着いて注射を打った直後に様態が急変したと
のことで、もしかしたら医療ミスだったのかもしれません。

 

その後、祖母も亡くなり、しばらくして母も母の妹も弟もなくなっ
て、叔母は一番下の妹だけになって親戚が少なくなりました。

 

いま実家は母屋は壊して無くなり、離れをリフォームして使って
います。

 

 

トランプうらない