先月、叔父(母の弟)の3回忌で母の実家に行ってきました。
場所は栃木県の黒羽町(現大田原市)で、うちの実家からは車で1時
間の距離です。
町中にある菩提寺で住職の読経が始まりました。
叔父は高校まで実家ですごし、ここの住職とは高校の時同級だった
そうです。
母は4人兄弟で、叔父とは7つ違い。私が小さい頃実家に行くと
よく遊んでくれました。
叔父は東京の大学を出て大手航空会社に入社し、専務にまでなった
立身出世の人です。飛行機と歩んだ人生だったので、住職が戒名に
「飛」という文字を入れてくれたそです。
新婚旅行はヨーロッパ。1ドル360円の時代ですが、そこは航空会
社の社員ですから。
羽田空港まで見送りに行きましたが、むかしは新婚旅行や転勤の
とき、駅や空港に見送りに行ったものです。
子供の頃、クリスマスにイギリス製の飛行機のプラモデルをもらっ
たことがありました。当時海外製のプラモデルは珍しく、うれしかっ
たので今でも記憶に残ってます(日本のプラモはまだ創世記でした)。
1984年に、叔父の勤める航空会社のパイロットがUFOを見たと話題
になりました。一時は騒然となりましたが、ある時からまるで無かっ
たかのようにパッタリと報じなくなりました。
叔父に真相を聞いたら・・・
1985年8月に日本の航空史上最悪の事故が起きました。その時親戚
の法事の最中でしたが、連絡が来て叔父は慌てて帰りました。
暑い日に喪服を着て山頂まで登ったそうです。
遺族のことを思うとほんとにつらかったと話していました。
当時はよく客室乗務員のストライキがありました。運行を妨げない
ように管理職が代わりを勤めたそうですが、大変だったみたいです。
でも、大柄な叔父が機内でサービスをしていた姿を想像するとちょっ
とユーモラスでした。
叔父一家は、いまでも東京のうちの近くに住んでいます。
海外赴任が長く、路線開拓のためよく交渉相手と英語で喧嘩したと
言っていました。当時の海外路線は1社だけだったのです。
子供を残して夫婦で赴任したときは、まだ中学生だった2人を母が
2年ほど預かっていました。もともとうちは父母、祖父母と同居し
ていた大所帯でしたが、更に2人増えて11人同居と凄いことに。
偉くなってからは毎朝ハイヤーが送り迎えをしていましたが、ある
時からバスに乗って通勤するようになりました。
どうして?と聞くと、景気が悪くなって待遇が変わったのだとか。
そういえば、むかしはパイロットはハイヤー、スチュワーデス(当時
の呼び名)はタクシーで送り迎えしてました。
なぜスチュワーデスと呼ばなくなったのか調べたら、男性乗務員を
現すスチュワードという単語が差別用語だったからだとか。
でも、その前はエアーホステスですからね。
何かの事件のとき、航空会社の幹部もテロの標的になるということ
でパトカーがよく見廻りに来てました。
たまに叔父の家が留守の時、お中元やお歳暮を預かっていましたが、
妻が爆弾が入っていないかと怖がっていました。
叔父は真面目だったので、航空券を優遇してもらうようなことは一切
ありませんでしたが、航空自衛隊の観閲式には何度か連れていって
もらいました。
航空会社と航空自衛隊は、パイロットの就職などで結びつきが深か
ったようです。
叔父は正義感が強く、たまたま乗り合わせたバスの中で、運転手さん
と大声で喧嘩してるのを目撃しました。ちょっと恥ずかしかった。
歩き方は超ガニマタで私はそっくりだと妻が言ってました(母方の家系)。
車が好きな上に手先が器用で、プラモデル(ほとんど飛行機)や陶芸が
得意で私と通じるところがありました。ちなみに母方の祖父は絵を描
いていて、母は人形作りが得意。これも母方の家系なのかもしれません。
さすがに大手航空会社の役員になっただけあって、ユーモアとウイット
にとんだ会話は楽しかったです。
今度一緒に食事に行こうと言ってましたが、その後体調を崩し、かな
わなかったのが残念です。
今年もあと1週間となりました。
最近アップする間隔がのびてきてますが、思わぬ方から「読んでいます」
と言われ、目が見えるうちは続けようかと思います。
来年もよろしくお願いします。