テレビが出始めた頃は、街頭に置いてあるテレビに人だか りができたり、近所の家にあがりこんで見せてもらうのも普 通でした。わが家にテレビがきたのは私が幼稚園のころで、 もちろん画面は白黒。スイッチを入れてから映るのに30秒 ぐらいかかりました。 放送局の数もまだ少なく、主にNHKを見ていたように思い ます。確か午後に2時間ぐらい休みがあり、夕方は相撲中 継で始まり、夜は12時ごろで終わりました。24時間放送し ている今では信じられない話です。 貴重品だったテレビは大切に扱われ、見終わると布のカバー をかけていました。 まだ実家にある白黒テレビ。布のカバー付き。 残念ながら写りません。 余談ですが、民放のラジオ・テレビはみな新聞社が母体と なっており(日本テレビは読売新聞、TBSは毎日新聞等)、 新聞・ラジオが全盛の当時は、新聞社からテレビ局に移動 になるのは左遷と思われていたそうです。 ついでですが、宇津救命丸はこのころからCMを始めてい たので、知名度は飛躍的に上がりました。 テレビは当時とても高価なため、一家に1台あればいい方。 常に茶の間の中心にあって、家族全員で見ていたのを覚 えています。 こんなことからも、当時は家族のコミニケーションがよくとれ ていたのではないでしょうか。 しかし、いいことばかりではありません。いろいろな番組が 増えてくると、チャンネル権の争奪が始まります。 当然父が一番の権利を持っていましたが、父が見ていない 時は、何を見るかでよく姉と大喧嘩をしました。 当時チャンネルはダイヤル式で、何度もチャンネルを回して いるうちにバカになり、軸をつまんで廻すペンチは必需品で した。 私が小学3~4年のころ、徐々にカラーテレビが増え始めま したが、我が家にはまだありませんでした。 ある日近所の電気屋さんの前を通ると、いつも私が見てい るアメリカのテレビ映画がカラーで放送されていてビックリ。 カラーテレビが欲しいと母にねだったのを覚えています。 そのころ、画面に貼り付けると白黒画面がカラーになる(?) という怪しげなカバーがありました。実際はセピアカラーに なるだけでしたが・・・ ほかに、画面が大きく見えるレンズのようなカバーや、赤・ 透明・青の三色に別れたカバーもあり、かえって見づらい画 面に子供心に意味がわかませんでした。 1964年の東京オリンピックを契機に、急速にカラーテレビが 普及し、わが家もやっとカラーテレビがきました。 そのころから家のテレビも複数台になり、チャンネルの争奪 戦から開放されました。 当時もまだテレビは高級品だったので、立派な木を使い、扉 の付いた家具調テレビが流行りました。 納戸の中から発掘された当時のカラーテレビ