私が小さい頃、外車といえばアメリカ車で、ベンツなど 存在すら知りませんでした。まだ1ドルが360円の時 代ですから、いまの感覚でいくと普通のセダンでも1千 万円以上。いかにアメ車が高嶺の花だったかおわかり でしょう。 小学生のときバス通学をしていましたが、そのころの 路線バスは本数が少なく、来ても満員で客がドアの外 にぶら下がって乗るぐらいでしたから、小学生にとって は大変過酷でした。 雨の降るある日、バス停でなかなか来ないバスを待つ 私の前に、大きな黒塗りのアメ車が停まりました。 後ろの窓が開くと、乗っていたのは同じ小学校の下級 生とお父さんで、一緒に乗せてってくれることになりま した。クラウンでさえまだ小さな時代、その広くて豪華 な車内に驚き、アメリカ車のすごさに感動しました。 時はたち、1964年に公開された映画「007・ゴールド フィンガー」では、1千万円もするアメ車を機械で潰した と話題になりました。いまでは映画でフェラーリが爆発 してもそんなに話題にならないでしょう。 大学のころの車好きの間では、少しづつ増えだしたヨー ロッパ車のファンが増え、アメ車ファンはダサいといわ れました(あくまでファン。オーナーではありません)。 彼らは習いたてのドイツ語読みでBMWをベーエムべー と発音し、ビーエムダブリューと読んだ私を馬鹿にして ました。いまでは社名がビーエムダブリューですが。 社会人になって、初めて乗った外車はアメリカ車でした。 ヨーロッパ車はまだまだ高価でしたが、このころは円の 価値が上がり、アメ車でも手の出せる価格になってき たのです。 そのころの日本車は、大きさ・排気量・スタイルにさえ 規制があって、4ドアセダンなど最悪でした。 さらにバックミラーはボンネット上にあり、エアースポイ ラーやタイヤを替えただけでも車検が通らない厳しい 時代でした。 その点アメ車は安い国内のガソリンを背景に、ばかば かしいほどの大きさと排気量・馬力を持ち、規制のない 斬新なデザインが魅力でした。もっとも、図体が大きい だけに、繊細さは微塵もありませんでしたが。 友人から譲り受けたクーガー。前席のながーいベンチ シートには、私と家内の他に子供が横になって寝れる ほどの広さでした。いま見るとはずかしいです。 しかし、その間に日本の車も徐々に性能・スタイルが よくなり、さらにセンスのよいヨーロッパの車もどんどん 増えてくると、アメ車の魅力も半減してきました。 その上、オイルショックでガソリンが高騰すると、その 大きさと燃費の悪さが致命的になり、絶滅する恐竜の ように数が減ってきました。 私もこのころにアメ車と決別しましたが、思えばそのこ ろからアメ車の運命が決まっていたのかもしれません。 逆に、いろいろな制約の中でなんとか効率のよい車を 作ろうと努力してきた日本車が世界のトップになったの はなんとも皮肉な話しです。 ]]>