いつごろ作られたものかわかりませんが、宇津権衛門薬房と書い
てあるので昭和初期のものだと思います。珍しいのはその写真の
数々。
昔の栃木の実家です。
私が小さいころにはまだあって、かすかに記憶が残ってます。茅葺
き(かやぶき)屋根の大きな家で、広い土間がありました。
どれだけ広かったかというと、そこでオート三輪(三輪のトラック)が
Uターンできたとか、薬師堂のお祭りの映画大会で雨が降ると、村
の人をみんな中に入れてそこで上映したなどという逸話があります。
正月は土間で餅つきが行われ、その音で目が覚めたものでした。
いまも残る誠意軒。
むかしは長男だけがここで救命丸の調合をしていました。周りに
しめ縄を飾り、正装して調合している写真は始めて見ました。
敷地の前のお堀。
いまはブロック塀ですが当時は板塀でした。倉敷の様なおもむきが
あります。
昔の製丸機。
モーターが貴重だったため、1台のモーターからベルトドライブで何
台もの機械を動かしていました。
当時、上野駅前にあった大きな広告塔。以前、都電のポスターに
も写っていました。
名古屋の駅前にも広告塔がありました。
東京連絡所。
当時本社は栃木にありました。
昔の看板類。
当時は特約制で、看板は販売店の証として買っていただいてまし
た。以前にもご紹介したように(2011/11/17 宇津救命丸看板グラ
フティ)いろんなタイプがあり、価格もいろいろでした。売上によって、
渡す看板にもランクがあったという話もあります。
現在の物価は、昭和6年の2000倍だそうですから、五円と書いて
ある看板は10000円ぐらいの価値だったのでしょう。もっとも、いま
木で手作りの看板を作ったら、とても1万円ではできませんが。
昔の景品
物のなかった時代、景品といえどもお店やお子様に喜ばれました。
いまは何事も便利になりましたが、当時はほんとにいい時代でし
た。昔を懐かしむようでは歳をとった証拠でしょうか。
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