義理の叔母

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先日、叔母が83歳で亡くなりました。

 

叔母は私の父の弟の連れ合いで、私の義理の叔母になります。
叔父夫婦は子供がいなかったので、私達をとてもかわいがってくれ
ました。

 

叔父が亡くなった後、叔母はずっと一人で住んでいましたが、叔父
は叔母に免許も取らせなかったので、買物や病院に行くときはもっ
ぱら巡回バスかタクシー。田舎暮らしは車がないと大変なのです。
だからほとんど家を出ることはありませんでした。
我々が実家に行ったときは、毎日顔を合わせ、買物や食事を一緒に。
「血のつながらない3人がいつも一緒で不思議だね」とよく言って
いました。

 

たまに旅行に誘うと喜んで一緒についてきました。
鬼怒川温泉に行こうと現地の旅館で待合わせをしたことがあります。
当日天気が大荒れで、東北道が通行止め。それでは電車で行こうと
駅に行くと列車も運休でした。仕方なく中止にしようと叔母の携帯
にかけると、バスを乗り継いでもう向かっているとのこと。
えー、ネットが出来ない叔母がどうやって調べたの?あわてて家に
戻り、通行止めが解除になったので、急いで車で向かい無事に会う
ことができました。よほど楽しみにしていたのでしょう。

 

気丈に一人で住んでいた叔母も、病気には悩まされていました。
叔父がまだ元気なころ2回のガンの手術をし、その後元気になりま
したが、元来心臓が悪く、叔父が亡くなった後は目が回るとか心臓
がバクバクするとか、毎日病院を廻るのが日課で、薬も山のように
飲んでいました。病院の検査に付き添った妻も姪も大変でした。

 

あるとき、叔母の家を訪ねた民生委員から、郵便受けに新聞が溜まっ
ていると連絡が。そのとき我々は東京にいて、最悪のことを覚悟し
ました。でも、見に行ってくれた人が叔母の無事を確認。脳出血で
床に倒れていたのです。でも、まだ涼しい季節でよかったですが。

 

しばらく入院して退院したのですが、驚くことに薬が管理されて減
らされ、めまいや心臓バクバク、その他の症状はなくなりました。
やはり薬の飲み過ぎは要注意です。

 

しばらくは元気でいたのですが、その後何度か脳出血を起こし、入
退院の繰り返し。そのたびに医師から、次倒れたら危ないと言われ
てました。心臓病の血液をサラサラにする薬が、脳出血の原因にも
なるもろ刃の剣で、その兼ね合いが難しいとのことでした。

 

だんだん一人でおくのは心配になり、近くの施設に入ることになり
ました。それから3年、その間にも脳出血を起こし、だんだん弱っ
てきました。

 

今年の6月の早朝、突然施設から電話があり、数日前から食欲がなく
水分も取らないそうで、酸素濃度、血圧、脈が低いので、主治医に
よると危篤状態だとのこと。寝耳に水でビックリです。ちょうど実家
にいたので慌てて施設に飛んで行くと、ここ数日ではないかと言わ
れました。みんなで泣きながら枕もとで話しかけましたが、意識は
あって受け答えもちゃんと出来るのに・・・

 

それから更に一週間、危篤と言われたのに小康状態が続き・・
叔母の実の姪が、最後にと言ってアイスクリームを食べさせると一口
食べ、その数日後にはなんと1個食べました。その後、とろみをつけ
た味噌汁を飲ませると、今度はご飯が食べたいと。
危篤と言った医者もビックリですが、そもそも危篤の判断がおかしかっ
たのでは。

 

その後驚異的に回復し、車いすで下に降りてみんなと一緒に食事をす
るまでになりました。何度も危機からよみがえり、まさに不死鳥の
ようです。しかし、いつ何が起きるかわからないので、みんなに連絡
し、私の孫たちにも会うことが出来ました。

 

それからまたコロナが蔓延し、面会が出来なくなりましたが、9月
の終わりに施設から連絡があり、急にまた危ない状況になったと。
コロナで家族は面会謝絶の中、施設のご厚意でずっと付き添っていら
れました。今度も奇跡が起きると思っていましたが、今度ばかりは
ダメでした。妻と姪が見てるとき、静かに息を引き取りました。

 

本人は何度も生き返り、われわれも出来るだけのことをしてあげれ
たので、悔いを残すことはありません。
施設のご厚意と、ほんとの母親のようにずっと面倒を見てきた妻に
感謝です。

 

通夜と葬儀は、本人の希望もあって家族だけで済ませました。
いい思い出だけしかない叔母でした。

 

 

災い転じて福となせるか