前回の幼稚園の話からむかしむかしを思い出し、70年前にタイム
スリップしました。
戦争が終わってまだ7~8年の頃、何もない時代ですからすべ
てのものが貴重でした。
幼少の頃は栃木の実家にいることが多かったようです。
あまり記憶がありませんが、ウサギとニワトリを飼っていたの
は覚えています。
母によると、私が食事の時にご飯をこぼし、それを居間に入っ
てきた鶏が食べていたそうです。それを私が面白がって、茶わん
をひっくり返してご飯を撒き散らして困ったとか。
前回書いたように私と姉は年子で子供の頃はいつも一緒でした。
東京の幼稚園に入っても、毎年夏休みは実家に幽閉状態。
当時まだ自家用車などはなく、宝積寺駅からのバスは日に数本。
しかもバス停から2キロ近くも離れていたので、実家に行った
らどこにも行けず、姉と二人で外を駆け回ってました。
バスは古くてガタガタ、道は未舗装だったのですごく揺れました。
当時「田舎のバスはオンボロ車~ ♪」という歌が流行り、バスの
中で私と姉が大声で歌うので母は困ったそうです。
毎日外で遊んでいたので、幼稚園が始まると真っ白な都会っ子
の中に二人だけ真っ黒。いま孫娘がそうです。
当時実家の前になんでも売っているよろず屋があり(いまの
コンビニのはしり?)、そこに姉と飴玉を買いに行くのが外界と
の唯一の繋がりでした。たまにアイスクリームも入荷しますが、
電機の冷蔵庫なんてない時代なので長くは保ちません。
いつ入るかと聞いてずーっと待っていました。
その後やっと工場にオート三輪が来て、工場の人が宝積寺まで
行くことがあり、いろいろ買い物を頼みました。宝積寺駅近く
にきんとん饅頭で有名な店があり(三越本店で売っています)、
私はそこのあんパンが好きでした。ある時、いつもと違う工場
の人に頼んだら、間違って白あんを買ってきてガッカリ。
当時は曾祖母がまだ元気で、実家の奥のうすぐらい部屋で火鉢
の前に座り、長いキセルで煙草を吸ってました。周りの人には
ご隠居さんと呼ばれていたような。
その煙草盆を母が何度も蹴飛ばし「裕子は粗忽者だね」といつ
も言われていたそうです(亡くなるまで粗忽者でしたが)。
私に優しく、火鉢の前で一つの熟した柿を仲よく二人で食べた
記憶があります。ドクダミ茶を作り、オデキが出来ないように
と毎日飲まされました。
廊下の突き当たりに大きな壺があり、そこに数の子を浸けて
よく棒でかき混ぜていました。それを姉と二人で夜こっそり盗
み食いに行ってました。
当時テレビはかなりの高額で実家にはなく、近所(といっても
300m離れてます)のデパートに勤めている人のうちにあり、
たまに見せてもらいに行きました。そこに金属製の扇風機があ
り、漏電していて触ると「ビリッ」と感電。ひどい時代です。
実家の隣に叔父が一人で住んでいて、行くと私たちをかわい
がってくれてました。ある日姉と、叔父の家の塀の穴から潜り
込み、裏にあった小山にのぼって遊んでいました。そして叔父
を呼ぼうということに。
大声で何度も何度も名前を呼ぶと、叔父が家から出てくるのが
見えました。すると、その後ろから女の人が出てきて叔父に羽
織をかけたのでビックリ!ずっと一人だと思っていたし、子供
心に見てはいけないものを見てしまった気がして、転げるよう
に逃げ帰りました。
その女の人が、一昨年亡くなった義理の叔母だったのです。
80歳過ぎた曾祖母が庭で転び、その後何年も寝たきりに。
当時は介護施設などないので、人を頼んでずっと実家で寝てい
ました。
東京にいいたある日、夜中に突然起こされてタクシーで実家に
行くことになりました。当時は国道4号線しかなかったので、
4時間以上かかったと思います。
子供心にもなにか尋常でないと思いましたが、途中で曾祖母が
亡くなったと知らされ生まれて初めての別れにショックでした。

