先日、友人たちとグループラインをしていて太平洋戦争の話になり
ました。私が生まれたのは1951年で、戦争が終わってたった6年後
のことなのです。
こうして我々が存在しているのは、当たり前ですが両親が戦争を生
き抜いて来れたから。戦争で亡くなられた方は310万人、戦争前の
1940年の人口が7200万人だそうですから、計算上は23人に1人
が戦争で亡くなられたわけです。
その中で両親は生き残れたのですから、とても幸運だったわけです。
我々の父親世代はほとんどが戦争に行っています。
私が36歳で社長になったとき、父の代理で業界の理事会に行くと、
周りは父と同年代の方々ばかり。みなさん戦争経験者(たぶん)な
ので、背筋はピンとして、威厳があってちょっと怖かったです。
それに比べて、いまの同年代の理事さんたちは温和なこと。
一様にみんな息子に戦争体験の話はあまりしないようですが、いろ
んな体験があったようで、本人あるいはご子息から聞いた話を紹介
します。
私の父
薬大を卒業後、薬剤武官として宇都宮の陸軍病院に勤務してました。
ちなみに、戦争間際だったので、国家試験は免除だったそうです。
母は女学性の時、畑を歩いていたら米軍の艦載機から機銃掃射を受け
命からがら逃げたとか、軍需工場で秘密兵器の半田付けをさせられ、
うまく出来ずに泣きながらやったとか母の戦争体験の話の方がスゴイ。
兵役を逃れるために急いで薬剤師になった人もいるようですが、薬
剤師だからといって徴兵されなかった訳ではありません。
友人Aの父上
薬大を出て働いていたところで招集され、九州で沖縄行の船を待っ
ているときに終戦。ほんとに幸運です。
友人Bの父上
薬剤師でありながら近衛兵となって皇居の警備にあたり、その後
満州に出兵。
友人Cの父上(私の父と同級)
薬大卒業後、ジャワ、スマトラ方面に派遣され、乗っている船が魚
雷で沈められたそう。これこそ九死に一生です。
友人Dの父上 (私の父と同級)
南洋の戦地に行って終戦になってもなかなか帰って来ず、両親は
諦めていたらある日ひょっこり帰って来たとか。
アッツ島に派遣された同級生は、みんな玉砕したそうです。
父の知人はやはり薬剤師で南方に派遣されましたが、絵を描くのが
好きで、ヨードチンキとか薬剤を使って絵を描いていたとか。
ここからは普通の職業の方の話です。
友人Eの父上
飛行機の設計をしていて、完成した飛行機を積んだ船に同乗する
はずのところ、仕事の都合で別の人に代わり、その船は沈められ
たそう。
友人Fの父上
海軍士官で駆逐艦に乗り撃沈されて負傷。終戦時中佐だったので、
軍事裁判にかけられるのを心配していたとか。
友人Gの父上
通信兵として中国に派遣され、敗戦の情報を玉音放送の前に知った。
父の知人Aさん
中国に出兵して戦いもしたけれど、地元の人はみな優しかったそう
で、嫌な思いが無いんだとか。そんな人もいるんですね。
亡くなるまで毎年中国に旅行に行ってました。
父の知人Bさん
南方に出兵して捕虜になったけれど、監視が緩く、ボートから
ダイナマイトを投げて魚を採っていたとか。豪快です。
ほかにも、以前書いたように、私の小学校の担任は陸軍中野学校
の出身(スパイ)で、中国人に成りすまして潜入していたらバレて
殺されかけたとか、妻の担任は特攻隊の生き残りだったとかいろ
んな話が聞けました。
激戦地に行った人たちほど戦友とのきずなは強かったようで、妻
の父親は戦争の話はまったくしなかったらしいけど、毎年戦友会
は行っていたそうです。
いずれにしても、父親が戦争体験を家族に語らなかったのには悲
惨な思いがあったからでしょう。戦後から約80年たちますが、
二度と戦争が起きないことを願っています。