今の家の場所にはもう60年以上住んでいます。
その間にいろんなことが変わっていきました。
当時を思い出して・・・
ここに引っ越して来たのは小学生の頃。当時は交通の便が悪く、
まだ近くに畑があったり、大きな屋敷が点在してました。
大通りから300mぐらい中に入るのですが、その道沿いには銭湯、
和菓子店、床屋、ガラス屋、八百屋、肉屋、化粧品屋、歯医者、
中華料理屋、鰻屋、寿司屋、焼鳥屋、駄菓子屋兼パン屋、貸本屋、
豆腐屋と、生活に密着したお店がズラッと並んでいました。
それから数十年、閉店した店、新しく開店した店もありました
が、いま残っているのは、なんと歯医者さんだけとなりました。
近所には長年住んでいる人ばかりで、母は近所付き合いもよく
していました。当時は近所で亡くなられた方がいると、みんな
でお悔やみに行ったり、葬式の手伝いに行ったり。
私道を挟んで反対側に板塀の大きな家があり、そこの奥様と母
は親しくお付き合いをしていました。息子さんは私より少し上
で、中学生ぐらいの頃、私道で拳銃の早打ちの練習やラジコン
の車で遊んでいました。私も興味ありましたが、当時根暗で人
見知りだったもので2階の窓から見ていました。
やさしい奥様で、母が亡くなった後も妻も親しくさせてもらっ
てました。
息子さんは家業を継がれましたが、若くして亡くなってしまい、
事業がたちゆかなくなって自宅を売却することになり、引っ越
されました。涙の別れです。
その後広い跡地にいまは3軒の家が建っています。
そこの隣には、珍しい扉の付いた貸し駐車場がありましたが、
売られてそこに家が建ち、一家が引っ越して来ました。
そこのおじさんは怖くて、息子のレコードの音がうるさいとか、
家の前に車を停めただけで怒鳴り込んで来ました。しかし、息
子さんがうちの塀に車をぶつけた時は平身低頭で誤ってました。
しだいにうち解けてくると気の良い御夫婦で、何かトラブルが
あると味方になってくれたり、母の葬儀の時は奥様が来て手伝っ
てくれたりと良好な関係でした。
その後、その一家も引っ越されいまはアパートが建っています。
40年ぐらい前のこと、3件ほど離れた家のお母さんが子供を連
れて謝りに来ました。うちの勝手口の棚になっているブドウを
食べてしまったのだそうです。あんな小さくてすっぱいブドウ
をよくまあ食べたものです。
その家もいまは誰も住んでいないようで、売りに出されている
とか・・・
うちの反対側には早稲田の先生御夫婦の家があり、ちょっと怖
い奥様でした。
前の道で息子とキャッチボールをしていて、誤ってボールが塀
の中に入ってしまった時、中から「こんな所でやらないで!」
と怒ってボールを投げ返してきました。
でも時が立つにつれいろいろ話をするようになると、なんと奥
様は薬大の大先輩だとわかり、だんだん親しくなってきました
が、その御夫婦も亡くなり古い家も無くなりました。
お向かいの家、こちらには慶応の先生御夫妻が住んでいました。
ご主人が亡くなり、奥様が亡くなって家が売りに出され、解体
業者がやってきました。
妻が見ていると、外国人の作業員が2階の窓からトラックの荷
台へ段ボール箱を放り投げていました。すると段ボールが壊れ、
中から大量の原稿用紙が。長年御夫婦が綴ったと思われる原稿
用紙が、誰に読まれることもなく埃にまみれながら宙に舞い、
ただのゴミとして処分されていくのを見て虚しくなったと言っ
ていました。私の大事なプラモもどんな運命が待っているやら。
時がたつにつれ、大きな家も分けられて、そこに新しい生活が
始まっています。そして、そこにも等しく夕日が指しています。

