少年の壮絶な通学(の思い出)

公開日: 

前回書いた通り、私は小学校から暁星学園に通ってました。
うちはバリバリの仏教なのに、なぜキリスト教の学校に行かされ
たのかわかりませんが、私の父も暁星出身でした。

 

父は幼少の頃、飯田町に住んでいたので通学は容易だったでしょ
うが、私は遠くて大変でした。当時は自宅の近くにバスしか通っ
てなくて、バスから国電(いまのJR)に乗り換え通学していました。
ちなみに私の祖父は、国電のことを省線と呼んでいました。
むかしは鉄道省だったなごりでしょう。

 

バスは路線はいくつかあり、乗り間違うととんでもない方へ行っ
てしまいます。私が小1のとき父が心配で、バス停のそばで隠れ
て見ていると、私は紙に書いた行先とバスの行先を何度も見較べ
ていたそうです。
私は子供の後を付いて行ったことはありませんが、孫は心配で後
に付いて行くかも。

 

そのバスは本数が少なく、車体も小さかったのでお客さんで
ギュウギュウ。ドアが1つしかなく、東南アジアの街で見かける
ように、中に乗れないお客さんがドアからぶらさがり、車掌さん
が必死に押さえてました。

 

道も混んでて、雨が降るとなかなかバスが来ません。あるとき、
目の前で外車が停まり、後ろの席の窓がスーッと空いて中から
「乗りなさい」との声。よく見ると、暁星の制服を着た子供と
お父さんが乗ってます。子供心に「ラッキー!」と思い、お言葉
に甘えました。

 

その子は後輩でしたが、戦後10年ぐらいの時に運転手付きの外車
に乗ってるぐらいだから相当のセレブだったのでしょう。その後
も何回か乗せてもらったことがありましたが、バスが来ないとき
は「また通らないかなー」と思うようになりました。
ちなみに、その外車はアメリカ製でしたが、1ドル360円時代で
すから相当な金額だったでしょう。ベンツやBMWなんて存在す
ら知りませんでした。

 

何かの具合で父とタクシーで学校へ行ったとき、飯田橋の手前の
信号で停まるといきなりドアが開けられ「暁星に行くんですよね?」
と聞いた人がいました。私の制服でわかったそうですが、「羽田
まで行きたいが飛行機に間に合わないので相乗りさせてください。
タクシー代は持ちますので。」と。
もちろん、乗せてあげました。もうすぐ暁星だったので、父は
ラッキー!と思ったことでしょう。

 

国電も朝は混んでて凄かったです。酷電なんて揶揄されたことも
あります。車体がまだ緑やオレンジ色になる前、みんな茶色の小
さな車両でした(鉄道博物館にあります)。大勢が電車に乗ろうと
し、後ろから駅員さんが押してました。

 

乗ったら最後、次の駅まで少しも動けず、足を上げると宙吊り状
態となりました(事実です)。でも、ランドセルがクッションの役
をしてくれて、少しは楽でした。

 

当時の床は木で、塗りたての時はコールタールの臭い匂いが酷かっ
たです。当時の電車は危険がいっぱい。
飯田橋のホームは湾曲しているので、場所によっては電車とホーム
の間がかなり広く空き、年に何回かは暁星の小学生が落ちました。
でも、ランドセルが引っ掛かって下まで落ちないのが幸いです。
いまはホームが移動し、隙間は解消されたんだとか。

 

私は落ちませんでしたが、何回かドアの隙間に指を挟まれたこと
はありました。ドアが開くとき、ドアに手をついてると一緒に戸
袋に引き込まれるのです。これが痛くて抜けなくて。次の駅まで
我慢ですが、駅によっては反対側のドアしかあかないので大変で
した。いま考えると、当時は安全性まで考える余裕がなかった時
代かも知れません。

 

下校時はさすがに車内は空いてましたが、たまに戦争でケガをし
た傷痍軍人が、白い服を着てアコーディオンを弾いてました。
子供心に気の毒と思ったものです。

 

飯田橋駅に人気の切符販売機がありました。当時は電気式ではな
く、お金を入れてレバーをガチャンと押すと切符が出るのです
(たしか全線均一料金)。その1つが壊れてて、お金も入れずに
レバーを押すと切符が出てくるのです。私も何回かお世話になり
ましたが、そのうち治されてしまいました。

 

暁星は高台にあるので、飯田橋駅からは、ゆるやかな坂のルート
と、最後に急な坂があるルートがあります。遅刻しそうな時は走
って行くので、どっちも地獄の坂でした。
その後東西線が出来、電車は空いてたので通学は楽になりました。
でも、駅は九段下に出来たので、地獄の坂は同じでした。

 

校則で制服でどこかに寄るのは厳禁でしたが、通学路からちょっと
入った所にプラモ屋が出来、下校時に寄って通学の唯一の楽しみ
となりました。

 

こんな地獄の通学をしていたのに、先日会った学友は、神楽坂に
住んでいて歩いて通学していたそうです。うらやましー。

 

もっとうらやましかったのは妻。小学生のときは、友達と歌った
り笛を吹いたりしてノンビリ歩いて通学していたそうです。
ぐずぐずして朝ご飯を食べてると、迎えに来た友達がコタツに
一緒に入って待っていたんだとか。のどかー。

 

だいぶ前にテレビで、新幹線で通う小学生をレポートしてました。
まあ、いろんな人生がありますね。

 

72歳の同級会