小学校の思い出

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急に暖かくなって栃木でも桜が咲きました。毎年地元の小学校の入
学式の時、この辺の地区の子供たちがうちの薬師堂の中で記念写真
を撮ります。例年桜は散ってしまってましたが、今年は遅くてドンピシャ
でした。今年の新入生は地元が3人、全部で11人だそうです。

記念撮影に飛び入り参加

 

前回、小学校の頃の通学事情を書きましたが、いろんなことを思い出
してきました。

 

当時、暁星小学校の中に売店があり、制服から靴、文房具まで売っ
ていました。ちょっと珍しいのは、マリア様の絵や像、十字架、ロザ
リオなどを売っていたこと。カトリック系の学校ならではです。
1~2年の頃、お小遣いで小さなマリア像と十字架を買い、毎晩寝る前
にお祈りをしてました。我ながら純真だったんですね。

 

宗教の時間がありました。牧師さんの話でいまでも覚えているのは、
「神が見えないからといっていないとは言えない。アメリカはここか
ら見えないけど確かにある」。まあ、そうなんだけど・・・「近くに
行けばアメリカは見えます」と言ったらバチが当たるかな。

 

小学校は給食で、みんなで食堂で食べました。カレーライスが名物
で、みんなソースをかけて食べてました(てことはまずかったのか?)。
でも、卒業してもあのカレーがまた食べたいと言ってました。

 

給食には、毎回あのまずいスキムミルクが付いてました。たまにコーヒー
味の時があり、その時はマシでした。でもあれは、戦後間もない日本
の子供たちの食糧事情を知ったアメリカの市民団体が援助してくれた
物だそうで、まずいなんて言わずに感謝しなくてはいけませんね。

 

給食の主食はご飯より主にパンでした。食パンが2枚重ねで、バター
(マーガリン?)が塗ってあるのは1枚だけ。イチゴジャムが塗ってあ
ると嬉しかったですが、缶詰のミカンが挟まっていたのはNG。
シロップでパンがビチャビチャになっていたからです。そのトラウマ
で、いまでもフルーツサンドは嫌いです。

 

小学生の低学年のとき、通学路の脇の露店でミガキ粉を売ってました。
実演を見てると、サビてる所を磨くとピカピカになるじゃありませんか。
ちょうと家のブランコが錆びてたので、これだ!と。買って勇んで帰
りました。だけど、一生懸命磨いても全然サビなんか取れません。
小学生をだますなんてひどい。ちなみに妻は、露店で指に付けて擦る
と煙(のような物)の出る粉を買ったそうです。もっとひどい!

 

友達が、どこかの広場でダイヤモンドを拾ったと自慢して見せました。
子供心にも、さすがに本物のダイヤではないなと思いましたが、キラ
キラしてきれいでした。その鉱山の場所は秘密で教えてくれませんで
したが、別けてくれたときは嬉しかった。
いまは6歳の孫が、石を拾って水晶だと言ってます。

 

わがクラスにも番長がいました。肥っていて大きくて。関わらなかっ
のでよくは知りませんが、けんかの仲裁やいじめられた子の仕返し
をしていたような。
あるとき、下校途中に番町の手下に呼ばれ、小さな広場に連れていか
れて嫌な予感がしました。手下を従えた番長は土管の上に座っていて、
誰かのトラブルの話を聞いただけだったのでホッとしました。
でも、意外にフレンドリーだったのは覚えています。

 

学校の校庭は、土ぼこりが立たないように全面コンクリートでした。
だから転ぶと悲惨です。擦り傷はしょっちゅうでズボンも破れます。
サッカーで転んで頭を打ち、救急車で運ばれた級友もいました。

 

夏休みは、毎年学年ごとに自由工作の宿題がありました。その頃には
もういろんなプラモデルがあったので、お城や戦艦を作ってくる子が
けっこういました。私も母にプラモデルにしたいと言うと「あんなも
のは工作じゃない。自分で考えて作りなさい」 と怒られました。
そのおかげで工作が好きになり、30年後に自分の子供の工作を私が作
って、また母に怒られました。
いまは孫の壊れたおもちゃを治しています。

少年の壮絶な通学(の思い出)